先日、家族と『ズートピア2』を観て、
『ウィキッド』と通じるものを感じました。
どちらの物語にも共通しているのは、
- 善だと思っていたものが、必ずしも善ではなかったり
- 悪だと信じてきた存在が、実は違っていたり
- 「正しい歴史」として語られてきたものが、 実は別の姿をしていたり
そんな 価値観の反転 です。
「正しさ」は、誰の視点から見たもの?
ウィキッドでは、
「悪い魔女」とされてきた存在が、
本当は誰よりも純粋で、正義感を持っていたことが描かれます。
ズートピア2でも同じように、
悪者だと思われていた存在こそが
大切なものを築いていたことが明かされます。
ここで問いかけられるのは、
私たちは、誰の視点で「正しさ」を信じてきたのだろう?
ということではないでしょうか?
歴史も、常識も、
多くの場合は 勝った側・声の大きい側 から語られています。
それを疑うことは、
これまで信じてきた世界を一度、壊すことでもある。
だから怖いし、
簡単には受け入れられない。
善と悪を分けることで、私たちは安心してきた
「これは善/正しい」「これは悪/間違っている」
そう線を引くことで、
私たちは世界を理解したつもりになれたり、
“正しい側”にいると感じることで
安心感を得てきたのかもしれません。
『ウィキッド』の中で、
オズの魔法使いがこんなことを言います。
「人々を統率するために、
共通の敵をつくることは、
私がいた場所ではよくある手だ」
このセリフを聞いたとき、
物語の中の話とは思えず、
どこか現実世界のことのように感じました。
まだ答えは出ていないけれど
正直、
この映画たちを観て
「だからこう生きよう」と
はっきりした答えが出たわけではありません。
でも、
- すぐに善悪を決めつけないこと
- 一つの物語だけを真実だと思わないこと
- 自分の中の声を、もう一度聴いてみること
そんな 静かな問い が、
心に残っています。
もしかしたら今は、
答えを出す時期ではなくて、
これまで信じてきた「当たり前」を
そっと疑ってみる時間
なのかもしれません。
【考えること】を、誰かに委ねすぎていないだろうか
私たちはいつの間にか、
- 何が正しいか
- どう生きるべきか
- どちらが善で、どちらが悪か
そうした「答え」を
どこか外側からもらうことに慣れてしまっている。
専門家の言葉、
多数派の意見、
「常識」と呼ばれるもの。
それらは確かに便利で、
安心をくれるけれど、
同時に 自分で考える力 を
少しずつ手放してしまうこともある。
ズートピア2やウィキッドを通じて、
「あなたは、どう思う?」
という、とてもシンプルで、
でも、一番難しい問いを投げかけられたように感じました。
正解を探すより、問いを持つ
自分で考えるということは、
すぐに答えを出すことではない。
白黒つけないまま、
違和感を抱えたまま、
「わからない」を許すこと。
それは、
不安定で、心細くて、
ときに勇気がいる。
でもその先にしか、
自分の言葉 や
自分の価値観 は育たない。
誰かの正解ではなく、
自分の中から湧いてきた感覚を
信じてみること。
それがきっと、
これからの時代を生きる上で
とても大切な力になっていく気がしています。